第一回

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 39人乗りのプロペラ機で那覇空港を離陸した。下界に流れる沖縄本島を窓越しに眺めていると、前方の青い海にポッカリと浮かんだ緑の島がみえてきた。平らで巨大なチョウチョウウオのような形。周囲を囲むリーフに波が砕けて白く泡立つ。与論島である。島は周囲23・7キロ、面積20・49平方キロ。東京でいえば港区、大阪でいえば大阪環状線内のエリアとほぼ同じ広さだ。山や川はなく、もっとも高いところで97・1メートルと平らな地形で、ここに約6000人が暮らしている。
  空港に降り立つと、矢のように降り注ぐ強烈な日差しにめまいがした。ギリシャのエーゲ海に浮かぶミコノス島と「姉妹都市」を結んでいるのもなるほどである。

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 手荷物検査場で係員から手渡しで荷物を受け取り、空港を出た。すると駐車場に並んでいた車をみて一瞬「ムムッ」と感じた。ナンバーはすべて「鹿児島」。そう、与論島は沖縄本島からわずか21キロとはいえ、鹿児島県だった。那覇を発ってまだ一時間足らず。離陸直前に食べた沖縄そばがまだ胃袋で原形をとどめ、三線の響きが頭で鳴り響いていた身にとって少々驚きだった。
  その後、島のあり方について与論町役場や島の人へ取材をしていく中で、鹿児島県知事選や県行政について話は出るが、沖縄についてはめったに出てこなかった。島の人の目は明らかに「北西」(奄美大島や鹿児島本土の方角)を向いていた。
 ただ、島の人が鹿児島本土出身者のことを「鹿児島の人」と呼ぶのを聞き、「あなたは鹿児島の人ではないの?」と内心、疑問を持つこともあった。だが、こうした島の人の考え方の背景には与論島の複雑な歴史があった。

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 島は古来、大和と琉球の間で翻弄されてきた。三千年前に島に人が住み始めてから大和朝廷に従属した8世紀ごろまでののどかな部落共同体の時代は「奄美世(あまんゆ)」と呼ばれる。次いで9世紀に経済上の理由から大宰府の管轄外に放棄され、「按司(あじ)」と呼ばれる首長が割拠した時代を「按司世(あじゆ)」。1266年から琉球王朝の統治下となった「那覇世(なはゆ)」、1609年に薩摩藩が琉球を征服してから藩直属となった「大和世(やまとゆ)」と区分される。
 そして、戦後の昭和21年2月から28年12月までは米国軍政下に置かれ、日本でも鹿児島県でもない・外国・とされた。
 「奥底には沖縄の文化が流れているが、鹿児島県の与論島であり、われわれは鹿児島県人です」
 与論町教育委員長の竹内浩さんはこう語る。底抜けの陽光に縁取られた島の陰は濃く、深かった。

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 奄美諸島最南端に位置し、沖縄本島最北端を間近に望む与論島。青い海とリーフに囲まれ、「東洋の真珠」ともたたえられ、かつ歴史に翻弄されながらも、独特でおおらかな文化を育んできた南の小島の日々を追う。

(銭本隆行)