「人魚の涙」

新田一木

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

- 第一話 -

 子供を抱いた人魚の石像が、海にせり出した岩の上に置かれている。たそがれの海は、茜色に染まり、夕陽が金色に映える。満ち潮になって遠くに円弧を描いて曲がる海原を見つめている人魚の足元を、波が静かに洗いはじめた。夕もやがかかり、渚に群れ鳴く浜千鳥の声が、薄い霧のかなたに消えてゆく。

 人魚もゆっくりと、墨を塗られたように夕闇の中に姿を隠してゆく。与論島に、どうして人魚の像があるのだろう--その由来も今では、長い歳月の流れに消え失せてしまった。ただ、はてどとなく寄せては返す潮騒のささやきに遠い昔を、かすかにしのぶばかりである。夕もやの中で、すすり泣くような千鳥の声に、人知れぬ人魚の想いを、たずねてみたい……。

 

 ずいぶんと昔、この島にマサという漁師がいた。妻と子の三人暮らしであった。妻の名は、ウトゥ。子は、ヤマ。男の子である。ある日のこと、マサが、リーフの沖に漁にでかけた。リーフとは、島の回りを囲む環礁のこと。およそ浜から半里くらいのところにある。

 マサが、昼食の芋を潮水で味をつけながら食べていたとき、牛の鼻息のような音を耳にした。見れば甲羅に青苔をつけた大きな亀が、鼻ずらを海面に出しては、深々と息を吸い込んでいる。マサは、あわてて芋をほおばると、亀をめがけて網を投げた。ススキの穂のように絞られていた網が、海面に落ちる瞬間、パァーと大輪の花のように開いて亀をからめ捕った。

 亀が、激しくもがけば、もがくほど足や甲羅の突起に網が、からみついていった。亀を舟べりに引き寄せたマサは、モリを手にその白い首元を突こうとした。亀が、海面に出ていた首をあわてて引っ込めた。マサが、その窪みをめがけて、モリを叩きこもうとした時である。青い海面が、にわかに花びらを浮かべたように、サラ、サラと小さく渦巻いて、その中から、一人の人魚が顔をだした。

 人魚は両手を合わせて、マサを見つめると、ゆっくりと頭を下げた。水にぬれて輝いていた黒髪が、肩先から白いうなじにこぼれて潮風にほつれる。「お願いでございます。その亀は、私の幼い頃から父親がわりをつとめてくれた育ての親なのです。どうぞ命を助けてあげて下さいませ。」長いまつげの影がゆれる人魚の目に真珠のような涙が浮かんだ。あふれる涙が桜色の頬を伝うて、青く澄んだ海に流れ落ちる。

 マサもさすがに憐れになって亀を網からはずしてやった。年老いた亀の目にも白い涙が光っていた。マサはそれを見てホウーと長い溜め息をついた。殺さなくて良かったと思う。だが、マサだけでなく島の男達は、海のものを取らずしては生きてゆけぬのだ。それが日々の生業(なりわい)だからしかたない。

 マサは涙を浮かべている亀の目を見つめると「今度捕まったら逃がしてやらんぞ。」と言いふくめた。マサはこのもうろくしかけた老亀に、気安く人間に近付いてはならぬと注意したのだ。人魚は別れ際に再びマサに向かって頭を下げるとお礼の言葉を述べた。

 「私の願いをお聞きとどけくださいまして、本当に有り難うごさいます。これから、あなたの家の前にあるユーニャの樹には季節を問わずたくさんの花が咲くことでしょう。黄色いユーニャの花の中に、一つだけ純白で香りの良い花が咲くはずです。漁に出かける時は、必ずその花を持っていかれて、リーフの沖まできましたら花を潮の流れに浮かべてみて下さい。そしてユーニャの花が、流れを止めてクル、クルと回りながら花びらを散らすところに手ぐすを降ろして下さい……あなたの親戚の人達に分けても分けきれないほどの魚が取れますよ。」

 それだけ言うと人魚は、亀と一緒に長い黒髪を海草のように揺らしながら海の底に消えていった。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

  作者紹介

新田一木(にった いちぼく)

古くからある老木が、用をなさぬがゆえに切り倒されることもなく、生き永らえてきた。
昔から今へ、老木が見つめてきた島人<シマンチュ>の生活。

年輪に刻んだ与論島の喜びと悲しみを、無用の老木が、今、静かに語りはじめた。