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絶えず自分のことばかりが先に立つ。世知辛い社会を生き抜こうとあくせくし、いつしか感謝の気持ちが薄れていく。
「尊尊我無」は、現代の日本人のそんな日常からもっとも縁遠い言葉ではないか。
「トートゥガナシ」と発音し、主に奄美諸島の言葉で、特に与論島では今でも日常的に使われている。「ありがとうございます」という感謝の意味や神様へ祈るときに使われる。自分を無くし、出会う相手や出会いそのものを尊び、感謝の気持ちであたるという底意が込められているともいわれる。
日本のほぼ最南端に位置する西表島の船浮もまた、この言葉の生態系に属している。
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わずか四十四人が暮らす小さな集落には、島内からも船がなければたどり着けない。車は存在せず、舗装された道路もない。船着場のそばに固まる民家の背後には南国のジャングルが隆々と繁り、耳に届く音は波と鳥のさえずりだけ。
船を下りて船着場に立つ。思わず足が止まり、息をのんだ。都会の喧噪(けんそう)に順化していた身体の拒否反応だった。
「あまりの静かさに寂しくなりました」
生徒八人が学ぶ船浮小中学校の佐久川政一校長は昨春沖縄本島から赴任したころのことを振り返ってこう語る。
船浮の人々は自然の一部として生きている。集落の中をセマルハコガメがのし歩き、頻繁にカンムリワシが訪れる。いずれも天然記念物だ。白砂と透明な青い海を抱えた「イダの浜」まで徒歩十分。山ではイノシシが獲れ、海では沖縄の県魚・グルクンから巨大なイカまで簡単に釣れる。
遊園地もゲームセンターもないが、子供たちには鬼ごっこや魚釣りや海水浴を楽しむ時間がたっぷりある。卒業生が三十年余り前に小中学校の校庭に植えていったデイゴの木々が今では格好の遊び場だ。裸足になって登り、遠くをみつめる彼らの瞳が輝いてみえる。
潮のにおいを漂わせ、ゆっくりと風が流れていく。その風に吹かれていると、肩の力が次第に抜けてくる。ここは人間が日々に感謝しつつ暮らしていた過去と現在をつなぐタイムトンネルなのかもしれない。
尊尊我無。風と海、そして人々もその一部である豊かな自然に抱かれ、感謝の言葉が素直に出てきた。(銭本隆行)
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●撮影/酒巻俊介(産経新聞社 写真報道局) |
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【撮影データ】 |
6×4,5カメラ 35mmレンズ
コニカクロームSINBI100 |
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●撮影地/西表島、与論島 |
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●撮影状況:
ぐっと傾いた陽射しが、木漏れ日となって校庭に降り注ぐ。
●撮影テクニック:
主役はデイゴの木に登る子供達。それを浮きたたせる木漏れ日。その露出の差を計算して、陽の傾き具合が適切な時間を待って撮影。露出のポイントはデイゴの木・幹。チャンスは一瞬だ。 |
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先祖が残してくれた家 |
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大切なものは、時代を超え、後世にしっかりと伝えてゆく。いまも生き続ける「尊尊我無」という言葉には、幾代にもわたる人々の揺るぎない信念が込められているのです。 |
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